能『烏帽子折』 事前解説

能『烏帽子折』について

あらすじ

登場人物紹介

用語と人物の解説

装束と能面

烏帽子折りを楽しむミニ知識

能に愛された英雄・源義経

源平の争い

京の都から奥州へ 東山道

能とは?

能は仮面劇

能の歴史 ~ 誰がいつ能を作ったか

能を演じる人々 ~ 能楽師のうがくしの仕事、役割分担

Special Thanks from 観世和歌

あらすじ

烏帽子折』あらすじ‐1  ※赤字は解説あり。青字の人名は登場人物であり説明のあるものもあります。


時は平安末期、平治の乱に負けた源氏の頭領・源義朝は、野間の内海(現在の愛知県知多半島の町)で首を取られ、対する平家は頭領・平清盛の下で全盛を誇っていた。義朝の子どもたちは、頼朝を筆頭に日本各地に流罪となっていたが、捕まった時に三才と幼かった牛若丸(のちの源義経)は、都に近い鞍馬寺に預けられていた。そのころ陸奥(今の東北地方・岩手県以北)は藤原秀衡(奥州藤原氏)のもと金と軍馬を産出し、京都の朝廷の力の及ばない半独立国として栄えていた。金売り吉次はその奥州の商人として頻繁に平泉(陸奥の中心地)と京の都を往来し商いしていた。 吉次が弟の吉六と共に都での商いを終え陸奥に下る準備をしていると、鞍馬寺を逃げ出した牛若丸がやって来る。そして同行させてほしいと頼む。渋い顔をした吉次であったが、誰からも見捨てられた身という牛若を気の毒に思い同行を許す。吉次一行は三条から逢坂の関を抜けて都を出、鏡の宿まで下りそこに宿を取ることとした。宿場には早くも牛若の脱走に気づいた平清盛の使わした早打ちがいて、吉次一行にまぎれた牛若を探していると話していた。それを聞いた牛若は、髪を切り烏帽子を着け、東国出身の下男に変装しようと考え、烏帽子屋を訪ねる。 宿の烏帽子屋は、夜半の、しかも幼い客を不審に思うが、たっての願いを聞き入れて烏帽子を売る。しかも牛若の望みが平家全盛の世にはあるまじき左折と聞き、もとは源氏の先祖・源義家に重用された先祖を持つ身であるからと、快く左折に烏帽子を折る。そして若い客へのはなむけにと、左折のめでたい由来を語って聞かせる。牛若は感謝のしるしに、肌身離さず持っていた父・義朝ゆかりの小刀「こんねんどう」を褒美に与えた。

烏帽子折』あらすじ‐2    ※赤字は解説あり。青字の人名は登場人物であり説明のあるものもあります。

喜んだ烏帽子屋がそのに刀を見せると妻は涙し、実は最期まで源義朝に従った鎌田兵衛の妹・あこやの前であり、牛若が生まれた時この「こんねんどう」を届けた使いの者だと秘密を明かす。そして、亡父ゆかりの大事な刀を返すため夫婦は牛若のもとに駆け付ける。かつての主従の感動の対面となるが、早くも出立時刻となり、吉次一行とともに旅立つ牛若を夫婦は見送るのであった。 一行は旅を続け、不破の関を超え美濃路に入る。赤坂の宿に宿を取った吉次一行は、宿の亭主からそのあたりを根城とする大盗賊・熊坂長範が一行の積み荷を狙って夜襲をかけると噂になっていることを知らされる。吉次と吉六がどうしようかと相談していると牛若がやってきて、自分が追い払ってやろうと言う。吉次たちは喜んで牛若に守りを任せ、宿の奥に立てこもる。 宿の正面に牛若が潜んでいると、長範の送った手下どもが先発隊としてやってくる。松明を投げ込んで戦の首尾を占う手下どもを、牛若は鞍馬天狗譲りの剣技で散々になぶり追い返す。そこへ熊坂長範率いる敵の本隊が到着する。先発隊が戻らず、戦の首尾を占う松明もことごとく消され、投げ返されたと聞いた長範は弱気になり、このまま攻め込むべきか腹心の部下(一のツレ)と談合する。部下の反対もあって一度はあきらめようとした長範だが、やはり思い直し宿に攻め入った。が、闇に潜んだ牛若にほんろうされ、部下たちは次々に斬られたり、相討ちしたりして全滅してしまう。最後に残った長範自ら襲いかかるが、牛若は得意の身軽さで長範の攻撃をかわし、最後は頭から真っ二つに斬り割って敵を倒したのだった。

登場人物紹介

ワキ 金売り吉次

ワキ方の役者が演じます。

ワキツレ 吉六

ワキ方の役者が演じます。

子方 牛若丸

子どもの演じる役です。グループとしてはシテ方に入ります。

 

登場人物紹介

間狂言 又は アイ 早打ち

狂言の役者が演じます。

間狂言 又は アイ 宿の亭主

狂言の役者が演じます。

間狂言又はアイ 長範の手下 

狂言の役者が演じます。

登場人物紹介

前シテ 烏帽子屋 

シテ方の役者が演じます。

ツレ 妻/あこやの前

シテ方の役者が演じます。

後シテ 熊坂長範 

シテ方が演じます。

登場人物紹介

後ツレ 長範の手下 

シテ方の役者が演じます。

後ツレ 長範の手下

シテ方の役者が演じます。

用語と人物の解説  ※あらすじ中、赤字と青字で記された人物や場所、ものです。

牛若丸(のちの源九郎義経) 源義朝と常磐ときわ御前の間に生まれた九男。幼名は牛若丸うしわかまる、鞍馬寺で稚児名は遮那王しゃなおう、元服して後、源九郎義経みなもとくろうよしつねと名乗る。 黄瀬川の陣で兄・頼朝と初めて対面した後「御曹司おんぞうし」と呼ばれるようになり、また後白河法皇によって、従五位下、検非違使少尉、通称判官ほうがんに任ぜ られたため 「判官殿」とも呼ばれた。 父義朝が平治の乱に敗れ亡くなった後、母常磐と共に捕らえられるが、幼少のため一命を取りとめ成長して鞍馬寺へ送られる。しかし僧籍に入る前に脱出し、奥州・平泉へと逃亡した。兄・頼朝が伊豆で挙兵し、富士川の戦いで勝利した後、黄瀬川の陣にて初対面。以後、義経は頼朝の御家人の一人として、平家追捕の将軍の役を任され、その天才的な戦術で一の谷、屋島の戦いなど戦功を重ね、壇ノ浦にて平家を滅ぼす。 しかしその後は、兄・頼朝に代表される鎌倉幕府と、後白河法皇の率いる京都の朝廷勢力に挟まれ両者から利用され、遂には討伐される身となって再び奥州に下り、奥州藤原氏の庇護下に入るも、 秀衡亡き後、泰衡によって衣川で滅ぼされた。

用語と人物の解説  ※あらすじ中、赤字と青字で記された人物や場所、ものです。

金売り吉次

義経の生涯を描いた「義経記」に記されている、陸奥出身の金を扱う大商人。が、実在の人物かどうかは不明。

ご当地である東北、岩手にある伝承では、奥州藤原氏が平泉で全盛のころ、金成・畑村に住む炭焼き藤太と都から来た長者の娘がもうけた三人兄弟の長男が橘次(=吉次)であり、兄弟三人ともに藤原秀衡に仕え、都と陸奥を往復し、陸奥の砂金と都の品を扱って財をなしたと伝えられている。

特に長男であった吉次は商才があり、幼少のころから秀衡に目をかけられていたという。また秀衡にとっては、都の貴族にもお得意を持つ大商人の吉次は、かの地の情報を得たり、有力者と渡りをつけるにも格好の人物であり、秀衡のスパイの役割も務めていたと憶測される。実在は疑われるが、実際にそのような商人がいても不思議ではない。

用語と人物の解説  ※あらすじ中、赤字と青字で記された人物や場所、ものです。

早打はやう

馬やかごを走らせて、宿場に急を知らせたこと、またはその使者。

能『烏帽子折』では、時の権力者・平清盛が、牛若丸が鞍馬寺から逃げ出し、金売り吉次の一行に加わって都から逃亡したと聞き、牛若を捕まえるため都と東国との間にある大きな関所「不破の関」の手前の宿場・鏡の宿に急行させた。

熊坂長範

平安時代末期、赤坂の宿(今の岐阜県大垣市近辺)を根城としていたとする大盗賊。実在の人物かどうかは不明だが、「義経記」を始めとする多数の古書に登場し、石川五右衛門と並んで盗賊の代名詞となっている。

また絵画、特に浮世絵の題材としても人気で、月岡芳年や多くの錦絵の絵師に描かれている。

七歳で寺の財宝を盗んだことを皮切りに一生涯盗人人生を歩んだとされ、大盗賊・熊坂長範の伝説は本州各地にみられる。その人となりも人情味のある義賊や、北面(帝の警護役)の武士のなれの果て、藤原摂関家の元従者、また盗賊としても一匹狼や大勢の手下を従えた盗賊団の首領といったように多岐にわたる伝説が残る。

出身地や活躍した場所も様々で、能に登場する長範は石川県加賀市熊坂町の出身とされている。地元では、義経によって負傷させられ、故郷に戻って僧侶となったと伝えられている。

また三重、滋賀、岐阜の三県をまたぐ三国岳は、長範が隠れ住んだ山として「熊坂山」の別名がある。

用語と人物の解説  ※あらすじ中、赤字と青字で記された人物や場所、ものです。

 

かがみ宿しゅく

鏡の宿は、平安時代からある東山道沿いの大きな宿場。近江国蒲生郡鏡山の北(今の滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡)にある。都を発つ旅人の多くが最初の宿泊地とし、平安末期から室町にかけてにぎわったが、江戸時代に入り中山道が整備されると、宿場の指定から外されてしまった。が、紀州公の定宿とされ、本陣、脇本陣も置かれと、宿場の機能は失われなかった。

また英雄・義経の元服の地として、古来より義経ゆかりの地として有名であり、多くの遺構が残されている。

赤坂あかさかの宿

赤坂宿は東山道の宿場町の一つ。現在の岐阜県大垣市赤坂あたり。

美濃の国(岐阜県)を流れる杭瀬川はかつて揖斐川の本流であり、水運が盛んであった。赤坂宿は、杭瀬川を行きかう舟待ち宿として存在していた杭瀬宿が東山道時代から発展したもので、江戸時代に川港(赤坂港)が整備されると物資の集散地として一層の賑わいをみた。

明治に入っても杭瀬川を利用した水運はにぎわい、往時は三百隻もの舟が川湊に係留されていたとも言われている。しかし明治中期に入り鉄道が敷かれ輸送の主役をの座を奪われ衰微していった。

赤坂宿のすぐ西隣には青墓おうはか宿があり、中世には傀儡くぐつや遊女で有名な宿場町であった。

用語と人物の解説  ※あらすじ中、赤字と青字で記された人物や場所、ものです。

 
烏帽子えぼし 平安時代以降、和装での礼装の際、成人男性のかぶった帽子の一種。 初期には薄い絹地で仕立てていたが、平安時代以降紙でできたものに漆を塗ったものが用いられるようになって庶民にも普及した。鎌倉から室町前半にかけては、むき出しの頭を嫌い、被り物がないのを恥とする習慣が生まれた。烏帽子は当時の男性の象徴であり、これを取られることは禁忌とされた。 武家においては、元服(成人の儀式)の際、後見人を勤める者(烏帽子親)が新成人の頭にかぶせて大人の仲間入りを祝う、重要なアイテムとなった。平安時代の初冠の儀に由来するもので、宮中の位階を持つ貴族が冠を着用するのに対して烏帽子を持ち出したのが由来。この日を境に男性は頭に冠や烏帽子をかぶり大人社会に迎えられる。 『烏帽子折』にも見られるように、円筒形の烏帽子の頂上を、左折に折るのが源氏、右折に折るのが平家とされている。
源義朝みなもとよしとも 平安時代の河内源氏六代目頭領。源為義の長男。母は藤原忠清(白河院の近臣)の娘。源頼朝・源義経らの父。 奥州の蝦夷討伐で名をあげた源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。義朝は東国へ下向し、主に関東地方の豪族(坂東平氏)を組織して再び勢力を伸ばし、都へ戻って下野守に任じられる。 東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる中、尾張国野間にて、乳兄弟で最期まで行動を共にした鎌田正清の舅で同じく自分に仕えた家人の長田忠致おさだただむねに裏切られ殺された。

用語と人物の解説  ※あらすじ中、赤字と青字で記された人物や場所、ものです。

 

平清盛たいらのきよもり

 

伊勢平氏・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏の頭領となる。妻は平時子、娘に高倉帝中宮の徳子、息子は平重盛、宗盛、知盛など多数。
保元の乱で後白河天皇の信頼を得、平治の乱では源義朝と対立、最終的な勝者となり、武士として初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって巨富を得、通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)初の武家の権者。
晩年は長年の協力者であった後白河法皇と対立し、治承三年の政変では法皇を幽閉し、娘の徳子と高倉帝との間に産まれた安徳天皇を擁して政治の実権を握るが、その独裁は大きな反発を買い、源氏による平氏打倒の挙兵が相次ぐ中病没した。
源義家みなもとよしいえ
源 義家は、平安時代後期の武将。源頼義の長男で河内源氏の頭領。石清水八幡で元服したため、八幡太郎の通称でも知られる。源頼朝や足利尊氏などの祖先に当たる。
比叡山の僧による強訴の鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時奥州清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こしたが、朝廷はこれを私戦とみなし公の追討とは認めなかった。そのため、義家は自分に従って参戦した関東武士団の恩賞に私財を投じ、それが故に名声を高め、源氏が武家の頭領となる礎を築いた。
能面と能装束 後シテ 熊坂長範

長刀なぎなた
源平の時代の武器は、槍より長刀が主流。


長範頭巾ちょうはんずきん
熊坂長範専用の頭巾で、兜をかぶったような形


③面 長霊ちょうれいべしみ
熊坂長範専用の面。天狗の役に使われる「大べしみ」を小ぶりにした大きさ。見開いた目とあばた面が特徴。

紅無厚板いろなしあついた
法被はっぴの下に着ている厚めの織物でできた小袖。主に男性、鬼、年配女性の上着に用いる。 鬼や天狗、そして盗賊である長範のような役には、山道、飛雲、卍などのはっきりした柄が使われる。 「厚板」の名称は、元々板に巻き付けて保存していたところから名づけられた。


法被はっぴ
一番上に着る、広袖の短い上着。 袷と単のものがあり、金襴や緞子などの重厚な生地ででき、模様も大胆であり、図のように肩上げして着るときは「仕事中」「戦闘中」という意味。


半切はんぎり
前にひだを取り、後ろは平たく硬く作られた袴で、生地は金襴緞子きんらんどんすなどの華やかなものを使う


白足袋しろたび
シテ方・ワキ方は必ず白い足袋。狂言方のみ黄色い足袋を履く。

能面と能装束 子方 牛若丸

小結烏帽子こむすびえぼし
『烏帽子折』の牛若役専用の烏帽子。成人男性の一般的なかぶり物である。

 

 

直面ひためん
子方は決して面を着けません!
しかし、能の場合、面を着けていなくても顔の表情を動かさず、あたかも自分の素顔が面であるがごとく演じます。

 

紅入厚板いろいりあついた

長絹ちょうけんの下に着ている厚めの織物でできた小袖。子方の着るものは、華やかに紅色が入る。この「紅」の色の有無によって、役柄や年齢が変わってくる。紅色=若いと覚えるとよい

萌黄地霞四季花ノ丸長絹もえぎじかすみしきはなのまるちょうけん

しゃの透ける生地に金銀の糸で模様を織り出した広袖の上着。胸と袖に赤や紫の「ツユ」と呼ばれる組みひもを着ける。舞のある役に着ることが多い。『烏帽子折』の牛若は、長絹に大口を合わせ武家の青少年の姿で登場するが、後の戦闘シーンでは長絹を脱ぎ、鉢巻きを締めて戦支度となる。

 

白大口しろおおくち
大口袴の略称。前にひだを取り、後ろは平たく硬く作られた生絹地の半袴。
腰をふくらませて着用する。

能に愛された英雄 義経

「義経像」

中尊寺所蔵

 

能『橋弁慶』より

牛若丸:観世和歌

2016年2月11日

義経ほど日本人に愛された英雄はいるでしょうか?

 

能を始め、歌舞伎、文楽の舞台芸術にも、また絵画や古典文学作品のみならず歌や和歌にも、牛若丸、長じて源義経となる若き武将は、数多く登場します。この人気はおそらく、その激動の生涯にあるのでしょう。
幼くして父を亡くし、母とも別れて鞍馬寺に預けられ、脱走し奥州までの長い逃亡の旅を続け、長じて兄・頼朝の挙兵にはせ参じると、その天才的な戦略で奇襲作戦を次々に成功させ、こう着状態だった合戦を圧倒的源氏優位で勝利に導きます。
しかしながら栄誉は短く、兄・頼朝に疎まれ、腹心である弁慶と数人の部下、そして恋人・静御前と共にまたもや長い逃避行に出立。最後は東北の地にて、一時は肝胆相照らした友人・藤原泰衡の裏切りにあってはかなく散る…まさにドラマの主人公にふさわしい、壮絶な人生です。

義経が登場する古典は、「義経記」「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」など多くあり、能における登場人物としてもぶっちぎりトップ、特に能における子方(子役)の役どころとして最多をほこります。まさに牛若と共に成長する…それが能の家の子です。
牛若丸或いは義経の登場する能は、『橋弁慶』・『鞍馬天狗』・『烏帽子折』・『屋島』・『正尊』・『船弁慶』・『安宅』・『接待』の八曲。このうち『屋島』・『正尊』・『接待』を除く五曲において、牛若或いは義経役は子どもによって演じられます。

能『鞍馬天狗』より

遮那王:観世和歌

2021年3月14日

能『安宅』より

義経:観世和歌

2021年9月17日

 

源平の争い  ※最右列は、出来事に即した能の演目です。義経のみならず源平の戦もまた能の原典として人気であったことが分かります。

源氏と平氏は、共に天皇の息子が臣籍降下(皇族をやめて臣下に下ること)し、武士として一門を立てた家でライバル関係にありました。先に頭角を現したのは源氏の源義家でしたが、平安末期になると、保元、平治の二度の乱を経て、平清盛が太政大臣の地位に着き、両家の朝廷での地位は大きく隔たりました。

これが世にいう「平家にあらずんば人にあらず」 平家の全盛の世です。しかし「驕れるものは久しからず」、貴族化した平家の独裁に反対し、各地で平家追討の挙兵が続き、義経の活躍もあって源氏が勝利しました。以降日本は、政治の中心が天皇と公家から武士に移ります源平の戦いとは、誰が政治のトップであるかを決める戦いでもありました。

京の都から奥州へ 東山道

上の図は平安時代に整備された都から延びる街道と主な関所の図です。

このうち能『烏帽子折』で吉次たちが旅したのは、赤字の「東山道とうさんどう」です。

古代の街道

国を平定し中央権力を強化するには、道の整備が欠かせません。街道の整備と関所の創設は、軍政学的に重要な案件でした。

日本でも古くから都から地方に通じる道の整備が行われ、飛鳥時代から平安前期の間に「七道」が整備されました。兵を迅速に動かし、中央に税を効率的に集めるなど、国を治める上で道の整備は物流を円滑に動かす重要事案であったからです。

都を中心に、四国を目指す「南海道」、瀬戸内海を下関まで下る「山陽道」、日本海側を石見国に至る「山陰道」、新潟、佐渡島を目的地とする「北陸道」、九州の要地である大宰府を出発して九州を巡る「西海道」、太平洋側から関東を目指す「東海道」、最後に朝廷の統治が及ぶのが最も遅かった陸奥(蝦夷の地)を目指す「東山道」の七つの街道が作られました。平家が権力を持つ朝廷の力の及ばない場所に逃げたかった牛若が、陸奥出身の吉次を頼って東山道を東北へと下ったのは必然でした。

なお、当時は河口近くの幅広い河川を渡るのは難しく、そのため内陸を通る東山道が東下りの一般ルートだったそうです。

能とは?

能を簡単に説明してください。」と言われたらどう答えますか?

能は仮面をつけたミュージカル」これが正解です。

付け加えるならば、①能は14世紀半ばに観阿弥・世阿弥親子によって大成され、②現存する世界最古の演劇であり、③ユネスコの世界無形遺産に最初に選ばれた日本の誇る舞台芸術である事です。

能の特徴の第一は「能面」です。日本には他にもユネスコの遺産に選ばれた歌舞伎や文楽という舞台芸術がありますが、「能=面」「歌舞伎=化粧」「文楽=人形」と覚えておくと間違いがありません。

 

 

能の歴史 ~ 能は誰がいつ作ったのか?

奈良時代に中国から日本に伝わった「散楽‐さんがく」という物まねやアクロバットの芸が、鎌倉から室町にかけて「猿楽」という名の大衆劇へと変化しました。これが能の原型です。猿楽は大きな寺や神社に付属し縁日などで芸を見せていました。中でも奈良の興福寺付きの「観世座」に、観阿弥清次かんあみきよつぐ世阿弥元清ぜあみもときよという大名人が出現。時の将軍・三代足利義満に気に入られて都に進出し、現在と同じ形の舞台芸術である能の大成となりました。

世阿弥は優れた脚本家でもあり、『松風』など、能の持つ独特の美しさ「幽玄美」を備えた数々の名作を生みだしました。また能を演じるにはどう稽古し演じるべきかと指南する「花伝書」を著しましたが、これも世界最古の演劇論として国際的に高い評価を得ています。世阿弥は、能が永久に舞台芸術として成り立つにはどうしたら良いかを考え、大衆に受ける劇ではなく、少数ではあっても高い知識と教養をもつ人々に愛されるものこそ普遍的に続く芸術であると考えて脚本を書きました。このため能の話は「源氏物語」や「平家物語」の古典を題材にし、少し難しいのです。

また面をかけて演じるのが前提のため、腰を入れた「カマエ」という姿勢を保ち、動く時は必ずすり足「ハコビ」で歩きます。視野の狭い状態で、安定して様々な動きをする必要から生まれたと動きです。

観阿弥・世阿弥親子が観世家の祖であり、現在の直系の子孫が能楽観世流二十六世宗家・観世清和師です。観世和歌は本日『烏帽子折』の前シテを勤める観世分家・観世銕之丞家から明治時代に分家した観世喜之家の六代目にあたります。

能を演じる人々

 

能を演じる人々を「能楽師のうがくし」と呼びます。

能楽師には4つのグループがあり、① シテ方② ワキ方③ 狂言方④ 囃子方はやしかたにそれぞれ分かれています。能楽師は厳しい分業制であり、他の役を兼業することはありません。例えば、映画やドラマでは、俳優は時に主役、時に脇役を演じますが、シテ方になったら絶対にワキや狂言は演じません。ほかの役の場合も同じです。

① シテ方

主役であるシテ、その連れの役であるツレやお供の役のトモ、子方を演じ、またシテのお世話役の後見とコーラスを担当する地謡もこのグループの仕事です。最も人数が多く、演技は面をかけてします。(面を着けない場合も、「直面ひためん」と言って顔の表情を作らず面を着けている気持ちで演じます)また能では「面をかぶる」とは決して言いません。

シテツレ・子方後見こうけん

地謡じうたい

情景や登場人物の感情などを描写

能を演じる人々

② ワキ方 シテに相対する役のグループ。ワキの役柄は、必ず生きている男性であり、シテから話を引き出す役目がある。またワキの役者は決して面をかけない。脇役の語源でもある。 ③ 狂言方 能の中で「笑い」を担当し、語りやリアルな物真似を演じる。間狂言は狂言方によって演じられ、もう一度ストーリーをおさらいする役目も多い。
能を演じる人々

④ 囃子方はやしかた

能では、⑴ 笛⑵ 小鼓こつづみ⑶ 大鼓おおつづみ⑷ 太鼓たいこの4つの楽器が使われる。囃子方も分業制で、笛は一生笛のみ演奏、他の楽器を兼任することはない。能上演中は、舞台正面奥の「囃子座はやしざ」という場所について演奏する。並び方は、向かって右から笛→小鼓→大鼓→太鼓の順。指揮者がいないので、お互いの連絡は掛け声で判断している。

太鼓

囃子のリーダー。ただし太鼓の伴奏のない曲も多い。

大鼓

床几にかけ、左腰に乗せて打つ。太鼓のない時はリーダー。

小鼓

能では床几という椅子に腰かけ、右肩に乗せて打つ。

囃子中、唯一の旋律楽器

囃子方、地謡、後見の舞台での位置

Special thanks from 観世和歌

観世和歌ひとことインタビュー 1

■最も古いお稽古の記憶はいつ?
たぶん2歳くらい。八ヶ岳の舞台で父の後ろをついて歩いていた記憶があります。


■初めて子方で出た舞台を覚えていますか?
『鞍馬天狗』の花見稚児(はなみちご)の先頭を歩きました。

 

■子方のお稽古は誰に教わっていますか?
祖父(喜之)と、父(喜正)です。

 

■普段のお稽古はどのようにやっていますか?
祖父のお稽古は、まず謡から始めます。
父の時は、謡本を見ながら同時に型のお稽古をするときもありますが、
どっちにしろ、まずは謡を覚えるところからですね。
基本的には祖父や父がお手本で謡ってくれるのを、おうむ返しで謡って覚えます。
でも最近は、祖父が謡本の符号などを細かく教えてくれるので、ある程度はひとりで本を見て謡えるようになってきました。

 

■お稽古で特に難しいことは?
謡を覚えるのは割と楽ですが、舞の方は、型は覚えられてもお囃子…特にお笛や大鼓が覚えられないので、舞囃子をやる時などは合わせるのが大変です。

 

■これまで演じた子方で一番好きだったのは?
『橋弁慶』の牛若丸です。大好きなチャンバラの場面があるので(笑)。

Special thanks from 観世和歌

観世和歌ひとことインタビュー 2

 

■逆に、最も大変だった子方は?

『望月』です。特に、舞の部分の太鼓がなかなか覚えられなくて、当日まで不安でした。

 

■今回、お稽古で苦労した点と、楽しかった点は?

難しいのは前半のシテやツレ(烏帽子屋の主人とその妻)と向き合って会話する場面。楽しかったのはもちろん斬組み(きりくみ=チャンバラ)です!

初子方 花見稚児(二歳)

船弁慶 義経

國栖  天武天皇

Special thanks from 観世和歌

観世和歌ひとことインタビュー  3

■ズバリ!「烏帽子折」のみどころは?

みどころはいくつもありますが、その時その時の義経の心情を感じ取って欲しいと思います。

まずひとつめは、平家に天下を取られて親も亡くして東国へと下る「憂(う)き旅」(行きたくもないつらい旅)に出る牛若丸が、「いつしか商人(あきびと)の主従となるぞ悲しき…」(本来は源氏の武将となるはずの私が、商人に伴われて旅をすることになるとは…)と泣く場面です。

ふたつめは、たまたま行った烏帽子屋で、奇跡的に父義朝の家臣だった鎌田正清の妹(烏帽子屋の主人の妻)に出会う場面です。

はじめは身なりを変えて逃げのびるためだった元服ですがこの出会で自分は源義朝の三男、牛若だと身の上を明かし、改めて平家を倒すために気持が奮い立つんです。


私自身がチャンバラの場面が好きなのもありますが、実際の牛若丸も戦好きで先陣を切って戦っていたのだろうし、舞台上の相手役は10人ですが、本当はもっともっと大勢の盗賊を倒して、また旅を続けるんだ、と想像してほしいです。そして最後は、やはり斬り組みの場面です。舞台上で小さな子方が大きな大人を次々と斬り倒していきます。

Special thanks from 観世和歌

本日は、能『烏帽子折』にご来場いただき、誠にありがとうございます。

『烏帽子折』の牛若役は、謡あり、短いですが舞もあり、また舞台上で装束を変える「物着(ものぎ)」もあり、そして私の苦手な向き合い(ワキの森先生や前シテの銕之丞先生と向き合ったり、

正面を向き直したりする型)

もたくさんあり、最後は長い切組もあり、覚えるのが大変な大曲です。

祖父や父の教えてくれたことをよく思い出し、一つ一つていねいに演じたいと思います。

どうぞ最後まで楽しんでご覧ください。

皆さんが眠くならないようにがんばりますが、でも、もし眠くなってしまったら、ばれないようにウトウトしてください。

 

次に目を開けても舞台はさっきとあまり変わらないかもしれないので大丈夫です。そしてものすごく気持ちの良い眠りだと思います。

また最後に皆様にお願いがあります。

ロビーに、イエスのカリタス修道女会の下崎シスターが活動している、南スーダンの支援プロジェクトのための募金箱と盲導犬の育成事業の募金箱とが置いてあります。

幼稚園で教えていただいた富永シスターから、お友達のシスターがとても貧しい南スーダンという国で働いていると聞いてから、舞台に出演して頂いた出勤料と、見に来て下さったお友達などからのご寄付を続けています。

また、小学校一年生で富士山にある盲導犬の訓練所に行って、盲導犬を連れて歩く体験をしてから、そちらにも寄付をすることにしました。私が舞台に立つことが、たくさんの人の笑顔のもとになって欲しいと思います。

 

今年の大河ドラマは義経のお兄さん、頼朝が出てきます。義経を追いつめた人で私は嫌いなのですが、能には頼朝が出てくる曲も何曲かあり、『七騎落(しちきおち)』が有名です。前にも頼朝役をやったことがありますが、この夏も大河のせいで?おかげで?また嫌いな頼朝をやることになっています。

でも能の『七騎落』はなかなか面白い内容です。機会があったらまた見てほしいと思います。

能『七騎落』  子方 源頼朝役 観世和歌

使用した写真は、(公社)観世九皐会、(公社)能楽協会、寒川神社薪能、能の旅人等の公演で撮影されました。
撮影 駒井壮介、芝田裕之、青木信二